近くて遠い君に

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ライン ドット

その夜、俺は慎にしがみ付いたまま、いつまでも慎を離せなかった。慎がそんな俺を安心させるように何度も優しく抱いた。そして明け方近くなって、ようやく俺は眠りに落ちた。

 

そして翌朝、明るい日差しの中で隣に眠っている慎を見ても、俺には一瞬何が起こったか分からなかった。

 

(慎…何で?服、服はどこ?窓、あ、梯子は?)

 

スヤスヤ寝ている慎の横で、急に状況が把握できた俺は、ガバッと起き上がった。

 

(嘘だろー!)

 

間の悪いことに、その時、玄関のチャイムが鳴ると、慎のお袋の声がした。

 

「ごめん下さい。」

「あら、こんにちは。あのどうかなさったんですか?」

 

明るく応対に出たお袋の声が、急に心配そうに曇った。

 

いつの間にか慎も起き上がって、階下の気配に耳を澄ませている。

 

「あの…こちらに、うちの息子がお邪魔してませんでしょうか?」

「あら、慎一君…そう言えば今日はまだ…。最近はいつも、日曜になると来てくれるんだけど…。」

 

それから突然小さくなった階下の声が聞こえなくなると、慎がギュッと口を閉じたまま、真っ直ぐに俺を見た。

 

「おい、どうしよう…」

 

俺は多分、酷く情けない顔をしてたはずだ。でも、頭の中では忙しく、その場をやり過ごす言い訳を考えていた。

 

「夜中に慎が遊びに来たんだ。それでゲームをしてたら、そのまま寝てしまって…」

 

(ちゃんと慎と話を合わせなきゃ…)

 

そんな俺を見詰めたまま、慎が言った。

 

「俺、お袋にちゃんと話すよ。」

「え?ちょっと、慎…おい!」

 

そのまま慎がベッドから跳ね起きると、凄い勢いで服を着始めた。

 

「話すってまさか…おい、慎!」

 

ドアから出て行く慎に向かって怒鳴ったけど、慎は振り向かずに出て行ってしまった。慌てた俺も、適当に服を着ると部屋を飛び出した。

 

階段を駆け下りると、食卓に座った親父とお袋の前に、慎のお袋が不安そうな顔で突っ立っていた。その母親に顔を向けた慎の表情は、背中しか見えない俺には分からない。

 

「様子がおかしいとは思ってたのよ。でも…まさか…まさか、あんた…あんた達…」

 

慎のお袋さんに射抜くような目で見られて、俺は竦み上がった。食卓に読みかけの新聞を開いたまま置いて、親父が何か言いたそうな顔をしている。俺のお袋が困ったような顔をして、俺と慎のお袋さんの顔を交互に見た。

 

なんだか悪い夢を見ているような気がした。まるで皆から責められているような、どこにも身の置き所がないような気がした。

 

ものすごく悪いことをした…そんな気がした。

 

慎が振り返って俺を見ていたのにしばらく気がつかなかった。俺が絶望的な顔で慎を見詰め返すと、慎が母親の方を振り向いて言った。

 

「俺は一哉さんが好きだ。一哉さんも俺が好きだって言ってくれたから、俺達は一緒にいる。黙ってたのは悪かったけど、俺達は別に何も悪いことはしてな…」

 

そう言い掛けた慎の頬を、慎のお袋さんが思い切り引っぱたいて、部屋中にパシッていう乾いた音が響き渡った。

 

慎が顔を横に向けると、慎のお袋さんが「ひっ!」っていうような声を上げて、バタバタ走って行った。

 

部屋中に重苦しい沈黙が漂う。しばらくして、やっと俺のお袋が言った。

 

「慎一君、今日はとにかくお家に帰りなさい。お母さんと良く話して…ね?」

「はい…」

 

呪文が解けたように、慎がゆっくり俺の方を振り向いた。そして俺の顔を見て、驚いた様に目を見開くと、悲しそうな顔をした。それで俺は自分が泣いていたことに気がついた。

 

「後でまた来るから必ず、戻って来るから、待っててね、一哉さん。」

 

慎の左の頬が赤い。手の後が付くほどに…。

 

黙ったままの俺を心配そうに見たけど、慎は俺の親に向かってお辞儀をすると、母親の後を追い駆けて行った。

 

居間に残された俺をお袋が困ったような顔で見ていた。親父は胸の前で腕を組んだまま、さっきから一言も言わない。

 

「ねえ、一哉…」

 

お袋がそう言い掛けた途端、俺は弾かれたように「ごめん。」それだけ言うと階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。

 

そしてそのまま一番大きなバッグを掴むと、当分の間、必要な服や下着だけをドンドン詰め込み始めた。

 

「一哉、ちょっと降りて来なさい。」

 

階下から聞こえた親父の声を無視すると、俺は膨らんだバッグを掴んで部屋の中を見回した。最後に窓に目を遣ると、ギュッと心臓が痛くなる。

 

(ごめん、慎…)

 

今までのことも、これから俺がすることも、何もかも全部…ごめん…。

 

大きなバッグを抱えて階下に下りると、お袋と親父が目を丸くして俺を見た。

 

「一哉…あんた一体…」

「ごめん、ほんとにごめん…」

 

履き潰したスニーカーに素早く足を突っ込むと、仕事用の靴を掴んで、俺はそのまま玄関から飛び出した。

 

その夜は会社の近くのホテルに泊まった。あれこれ考えると眠れなくて、気が付くと電源を切ったままの携帯を見ていた。

 

慎…

 

ずるい解決の仕方なのは分かっていた。でも俺には他にどうすればいいのか思いつかなかった。

 

俺さえ居なくなれば、そのうち何もかも自然に元に戻るはず。

 

慎が俺を忘れ、俺が慎を忘れるまで…。

 

眠れないまま仕事に出て、うっかりしたミスを繰り返した。お袋から電話があったけど、「仕事中だから、後で掛ける。」それだけ言って、サッサと電話を切った。そして結局、気分が悪いからって上司に断ると、その日は早めに退社してしまった。

 

(社会人としても最低だよな…)

 

そう思いながら、会社から近くて、家とは反対方向になる沿線の駅を選んで、不動産屋を幾つか回った。

 

飛び込みで入ったそのうちの一軒に、少々値段は高いけれど、綺麗で1DKにしては広めの物件があったから、とにかく早く決めてしまいたかった俺は、その場で契約書にサインして鍵を貰った。

 

何もない空っぽのその部屋で、その夜俺は、とりあえずお袋に電話した。

 

「もしもし…」

「ちょっと、一哉!一哉なのね!ああ…あんた一体…とにかく今どこなの?」

「アパート。今日から借りることにした。」

「アパートって…そんな…。お願いだから早く帰ってきてちょうだい、ね。お母さん達、このままじゃ何がなんだか…」

「ごめん、母さん。俺…」

 

お袋の声が高くなったと思ったら、急に親父が電話に出た。

 

「一哉、父さんも母さんもお前の話を聞くまでは、隣から何を言ってきても聞くつもりはない。だから、一度家に戻りなさい。」

 

ギュッと携帯を握る手に力を込めると、俺は息を吸い込んだ。

 

「ごめん、父さん。俺、少し一人で考えたいんだ。後で必ずこっちから連絡するから、しばらく俺のことは放っておいて…」

 

俺が声を詰まらせると、親父が溜息を吐くのが聞こえた。

 

「あれから慎一君が来た。お前のことを心配してる。お前はそのことをどう考えてるんだ?」

 

ゴクッと唾を飲み込むと、俺は目を閉じた。

 

「慎にも…慎一君にも俺から必ず連絡します。」

「慎一君にお前の会社の連絡先を聞かれた。」

「それじゃ…」

「お前と話すまではと思って、連絡先は教えなかった。それで良いのか?」

「ありがとう…色々ごめんなさい、本当に…。」

「必ず家に連絡入れるんだぞ。一人で無理するんじゃない。」

 

親父がそう言うと、今度はお袋の甲高い声がした。

 

「一哉、お願いだから家に戻ってちょうだい!」

「いいから、もう切るぞ。」

「だって、あなた…」

 

しばらく電話の向こうで親父とお袋が小さく争うのが聞こえ、やがて静かになった。

 

そして俺は携帯を握り締めたまま、殺風景な部屋で身体を丸めて泣いた。

 

・・・・・・・・・・・・

 

次の日は何もないアパートの部屋に、帰宅途中で買った安物の枕と毛布だけ持ち込んで眠った。

 

それから毎日、少しずつ生活に必要な物を買っては部屋に運び込む日が続いた。

 

ベッドだけは注文して、土曜日に運んで貰うように決めてしまったけど、家に居る時は気が付かなかった、細かい身の回りの物が意外と多くて、買わなきゃいけないものが次から次へと際限なくある。

 

会社の帰りに適当に外で食べて、無いと困るものから毎日買い物するうちに、クヨクヨ考える暇もなく、あっという間に土曜日が来た。

 

その朝、小さなベッドが部屋に運びこまれると、他に何も家具のない部屋が、やっと自分の住処らしくなってきた。

 

ベッドに買ってきたシーツを被せて、枕をポンポン叩いて置いて、毛布をきちんと広げると、スッと手の平で伸ばしてみる。

 

「これから俺はここで暮らすんだ。」

 

そう自分に話しかけてみた。

 

そう、これからはここで一人だ。泣くのも、笑うのも、ここで一人。

 

もう慎に俺の話を聞いて貰うことは出来ない。

 

辛い時も、嬉しかった時も、少し眩しそうな顔で黙って話を聞いてくれた慎はもう居ない。

 

俺はこれからは一人。

 

そう思ったら、キッチリ伸ばした毛布の上にポトッと涙が落ちた。

 

折角伸ばした毛布が、握り締めた俺の拳に引っ張られてまた皺になる。そうやって自分の拳を見詰めていた俺は、しばらくしてやっと顔を上げた。

 

そして窓の外から見える綺麗な青空と雲、その明るさに励まされるように、携帯を開くと家の番号を押した。

 

「もしもし、一哉?」

「母さん、久し振り。ごめんね、連絡遅くなって...

 

心配そうなお袋の声に答えると、親父が横から受話器を取ったらしかった。

 

「一哉か?」

「父さん、連絡が遅くなってすみませ…」

 

そう言い掛けた俺を親父が遮った。

 

「慎一君、お前のところに居るのか?」

「え?」

「夕べから居なくなったって、お隣の奥さんが今朝、家に怒鳴り込んできた。一緒なのか、慎一君と?」

 

慎が…家出?

 

「俺…俺のところじゃない。慎とは連絡取ってないし

「そうか。もし慎一君から電話があったら、家に戻るように伝えなさい。分かってると思うけど、慎一君はまだ高校生なんだし、お前の方が大人なんだから無分別な真似は…」

 

それ以上は親父の言葉が耳に入らなかった。

 

慎が家に戻ってない…。

 

「ごめん、親父。俺、慎に連絡してみる。何か分かったら連絡するから、いったん切るよ。」

 

親父の返事を待たずに俺は携帯を切った。それから震える指で慎の携帯の番号を押す。着信拒否にして、メモリから消してしまった慎の番号は、それでも指が覚えていた。

 

そして携帯が繋がるまで、俺はドキドキしながら携帯を握り締めていた。

ライン ドット

 

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