風馬

ライン ドット

モンゴルの短く美しい夏が終わろうとしていた。

 

大学の夏休みを利用してNGOの活動に参加した僕は、六月の終わりからアルタイ山脈を遥かに望むこの内モンゴルの地に来ていた。今日は僕の滞在期間が終わりに近づいた九月、過ぎようとする夏の空が抜けるように青い。

 

僕は普段寝起きしている「ゲル」っていう、木枠に白い布を張った組み立て式の住居から出ると、いつもの様に白く輝く頂を見せるアルタイ山脈を仰いだ。夏の朝日が目に眩しくて、思わず手を目の上にかざしたその時、

 

「シン、起きた?」

 

オノがたどたどしい日本語で僕に話しかけた。

 

独自の文化を失いつつあるモンゴルで、オノの部族は騎馬民族の伝統を受け継いでモンゴル語を話す少数民族だ。そして彼らはそのことをとても誇りに思っている。

 

初めてオノを見た時、まるで日本人みたいなその顔立ちにどこか懐かしさを覚えた。でも顔つきは似ていても目がまるで違っていた。オノの目は、アルタイ山脈の高原に点在する一度も人に触れられたことのない湖のよう。蒼い瞳はどこまでも澄んでいる。

 

広い大地そのものの、ゆったりした心の持ち主。大地がいつでもオノの目の中に映っている。そのオノの目に見詰められるたびに、その目に映る自分の姿まで浄化される気がしていた。

 

オノがその澄んだ瞳で僕を見詰めると、

 

「オーケー?」

 

って聞いてきた。

 

この日のために僕は、モンゴル随一の都会、ウランバートルにいる友達から、礼装用のデールっていう民族衣装を送って貰っていた。もちろん帽子も。

 

その真っ青で綺麗な色の長い上着に、少し濃い紺のズボン、そして乗馬靴を履いたまま僕は両手を広げると、オノに向かってクルっと回って見せた。

 

オノが笑って頷くと、馬用のゲルに向かって歩き出した。朝日が昇ったばかりなのに、もうあちこちのゲルから人声がして、皆が起きだす気配がしている。オノが振り返ると、早くっていうように僕に手招きして駆け出した。

 

馬小屋になってるゲルの中に入ると、オノが自分の馬を引き出した。僕には一番大人しくて、乗り易い馬の手綱を渡してくれる。ここに来て生まれて初めて馬に乗った僕は、夏の終わりにはなんとかオノと遠乗りに出られるようになったけど、他の馬にはまだ乗れない。

 

そっと鼻面を撫でてあげると、馬が地面を軽く掻いて嘶いた。

 

「しーっ、静かに。」

 

僕が日本語で馬に話しかけると、オノが振り向いて笑った。

 

オノも今日は正装で、きゅっと締めたシルクの帯が細い腰にぴったり決まっている。僕はその布地の下に隠れた鋼のようなオノの肉体を思い出して、ひとりでに身体の芯が熱くなった。

 

手が届きそうに見えるアルタイの山々には、だけど広い草原をどこまで駆けても辿り着けない。青い空の下、その山々を背景に、鐙に足を掛け、腰を高く上げて、馬と一体になって疾駆するオノを見た時から、僕は恋に落ちてしまった。

 

僕の役目はこの地区に生息する珍しい野生動物や、植物の記録。足で回るのには限度があるから、馬に乗るのが一番確実だ。オノは、彼を見詰める僕の視線に気づいても、いつも笑って僕の目を見返してくれた。そして僕の下手糞な乗馬の練習に辛抱強く付き合ってくれた。

 

一緒に遠乗りに出かけるようになってしばらくして、オノと僕は自然に抱き合うようになった。広い夏の草原には、白や黄色の小さな花が咲き乱れている。その花々に囲まれて僕は何度もオノと口付けを繰り返した。

 

だけど、今日の遠乗りはいつもと少し違っている。夏が終われば、僕は一端日本に帰らなくちゃいけない。その前に僕はオノと二人だけで約束したかったんだ。大学を卒業したら必ず帰ってくる。だからそれまで待っていてって。

 

ゲルから離れて人声が聞こえなくなった所で、オノが鐙に足を掛けると、ヒラっと馬の背に飛び乗った。僕がオタオタしながら何とか馬の背によじ登ると、オノが首を傾げて僕を見た。

 

「シン、だいじょぶ?」

「うん、平気だよ。」

 

そのまま馬の腹を軽く蹴ると、オノがアルタイの山に向かって駆け出し、僕も一生懸命遅れないように後を追った。時々後ろを振り向きながら、オノが風を切って草原を駆け抜ける。

 

やがて僕らは広々とした草原の端に辿り着いた。ここまで来ればもう連なる山々との間を遮るものは何も無い。オノがそこで手綱を引くと馬を止め、少し目を細めて僕を見た。

 

僕はオノに向かって軽く頷くと、自分の馬に鞭を当て、一人で目の前の草原を真っ直ぐに駆け出した。

 

後ろを振り返らなくても、草原の端に立って僕を見詰めるオノの視線を感じる。あんまり早くオノに追いつかれないように、僕は一生懸命に走った。

 

心臓がドキドキして、馬の脇腹を挟んだ太腿に感覚が無くなってきた頃、

 

「ハッ!」

 

っていうオノの掛け声と、ピシっていう鞭の音が遥か後方に聞こえた。でも、地面を蹴る蹄の音が大きくなって、どんなに頑張って駆けても、オノにどんどん追い付かれるのが分かる。それでも前を向いたまま馬に鞭を当てていると、オノの馬が僕と並んで走り出した。そして、

 

「ハアッ!」

 

っていうオノの掛け声と共に、ヒュって頭上に鞭が撓う音がして、僕の帽子がオノの鞭にパシッと払い飛ばされた。青い帽子が一瞬空高く舞い上がって、フワリと地面に落ちる。

 

オノが素早く僕の前に回りこむと、僕の馬が驚いて嘶き、前足を高く上げて棒立ちになった。そして僕が必死に手綱を引くと、前足を下ろして首を振り、何度か足踏みするとようやく立ち止まった。

 

少し額に汗をかいたオノが、馬から飛び降りると僕の帽子を拾い上げ、僕を見上げて嬉しそうに微笑んだ。

 

「シン、もう俺のもの。」

 

僕も馬から下りると、オノに抱き着いた。

 

「うん、僕はもうオノのものだよ。大好き、オノ。」

 

この夏、オノの部族の若い男女が、一斉にこの草原を馬で駆け抜けた。前方を駆ける意中の女性の帽子を、後から追いつく男が鞭で狙って叩き落とすと、それで求婚が成立する。

 

騎馬民族のストレートで熱い求婚の儀式。

 

その時誰の帽子も落とさなかったオノは、今日二人だけで僕にプロポーズしてくれたんだ。

ライン ドット

続きを読む

 

短編小説に戻る  ホームに戻る

Copyright (c) 2007 Hotaru Natsuno all rights reserved.